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伊比井海岸の制海権を占めていた。
矢野氏の祖先は平安時代の1世紀前期、藤原純友の海賊集団を追捕する勅務のため四国伊予に下向、純友の乱後に伊予から日向に下り、日州七浦の領主として海の守りに任じた「海の豪族」であった。油之津に沢津城の沢津某が在り、伊比井浦に瀬平城の矢野氏が居て、南日向の海上を支配した。
海の豪族であった矢野氏と同じ役割を果たしたであろう沢津城主もまた、海上交通を支配したプロ集団を率いた有力な在地豪族であったとみてよい。日向纂記では城主を沢津某としているが、島津支配の時代のことについて詳しくは分かっていない。中世の油之津を守護、支配しつづけた豪族であったことは確かである。
瀬平城の七浦領主はのちに伊東氏の家臣となり戦国末期の重臣として働く。江戸初期の五代飫肥藩主祐実(洞林公)に抜てきの若き家老・矢野儀朝は、七浦の領主を祖とする名族の後蕎である。

 

南北朝の争乱後、諸豪らは領国形成に走った。日向下向の伊東氏は山東に基盤を確立すると、山西の雄・島津氏攻略に動いた。応永31年(1424)都於郡から西進、内海の加江田城に迫った。飫肥を拠点に都於郡の大地を収め、対明交易や琉球諸島と交流盛んな油之津、外浦など日隅諸港の支配をめざして飫肥攻めにのり出した。島津氏がもつ海外交易の権益に食指を動かしたのである。
伊東氏9代の祐安は加江田城から飫肥城をうかがっていた。応永31年、島津氏九代の元久は加江田城を攻めるため、油之津に軍勢を進め、神水を汲んで海路を加江田に出撃した。島津氏が油之津を軍事利用した記録として最初の史実である。
飫肥は油之津、外浦が海外交易の拠点として中世中ごろから、博多の賑わいを奪う勢いにあった。唐船、南蛮船の出入りは大量の交易品をもたらし、飫肥に莫大な富を築いた。交易の基地・油之津は私貿易船の出入りも盛んで“港千軒”の様相を呈していた。特に飫肥の奥山には大材が林立する財の山が想われ、領国の拡大により日薩隅の三州に覇権をめざす伊東氏にとって、飫肥は絶対に掌中にしなければならない重要な拠点であった。
島津氏は明国へ刀剣武具などの工芸品をはじめ多くの産物を輸出した。特に領内から産出する硫黄は莫大な利益をもたらした。明朝は内乱に備えて、起爆剤の硫黄を大量に求めていた。伊東氏は山西の砿物資源と飫肥北郷の山林資源、加えて日隅の天然の良港による島津の権益奪取に挑んだ。伊東氏の始動に対して島津氏は飫肥の護りを堅めた。飫肥は領内最東端にあたる。伊東氏侵攻を防ぐ最前線の要所であった。
島津氏10代の忠国は弟で日置郡領主の季久に串間(櫛間)から飫肥を宛行い、のちに族将・新納忠続を飫肥城主に据えた。長禄2年(1458)のことだが応永の加江田城攻めから24年後のことで、飫肥の防備が本格的にはじまった。ついで文明初期、飫肥の後衛となる串間城主に伊作久逸を置き、伊東氏の侵攻に万全の布石を図った。
しかしこの防備の配置が島津氏の同族抗争を招くことになり、文明17年(1485)世に云う「三州の大乱」が起こる。山東から虎視眈々の伊東氏の飫肥介入を許すきっかけとなっれ。11代伊東祐堯はすかさず長子の祐国と祐邑の兄弟を派遣した。内乱の主で島津一族の伊作氏が伊東氏に援軍を求めたことに応じたものだが、伊東氏は祐国を楠原で失った。これが天正年間にいたる伊東・島津の「100年戦争」の端緒となる。
飫肥城をめぐる100年抗争は、島津氏が占有する海外交易基地の油之津の経営を、我がものにするための伊東氏の野望によるものであったことは、改めて云うまでもない。
三州の大乱は鹿児島から島津忠国が出馬して鎮圧すると、飫肥城主に島津豊後守忠廉が座し、のちに串間城から忠廉の子・忠朝が飫肥城に入った。忠朝の時代は飫肥がよく繁栄した。これによって飫肥豊州家が確立され、忠広、忠親と島津豊州家4代が飫肥を支配した。永正16年(1519)室町幕府は大内氏を通じ、飫肥城主の豊州家2代忠朝に日向沿海の警護を命じている。海上往来の遣明船を保護することになったわけで、忠朝は幕府命により制海権を一層厚いものにした。
飫肥の地は油之津という有能な港湾資源を擁して豊かな富を領国にもたらしており、島津氏の日向計略に重要な位置にあった。しかも、日向と大隅の海境に位置し、南信と云われる南回路の要衝であったから、明国大陸を往来する船の寄港、滞留も多かった。
足利3代義満将軍から本格化した明国との勘合貿易は、幕府直営船に伴って、博多商人が大内氏と、細川氏が堺商人と結んで勘合船団を組んだ。瀬戸内海から関門海峡を博多之津に巡って九州西海を東支那海へ渡った。帰路もまた同じ九州の西廻りのコースをたどった。
8代将軍足利義政が仕立てた遣明船の大内船は正使を僧天與清啓としたが、副使を桂庵がつとめた。画人雪舟も同乗して帰路についたところ、応任の乱が燃えさかっているため、瀬戸内海を通過する往路のコースを避け、九州南岸を西へ日向海岸から四国土佐を経て堺にたどるコースを拓いた。これによって南回路として文明期以後盛んになり、九州南岸の大航海時代を現出し、飫肥外浦

 

 

 

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